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ピックアッププレイヤー 2023-vol.13 / DF2 登里享平選手

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テキスト/隠岐 麻里奈 写真:大堀 優(オフィシャル)  text by Oki Marina photo by Ohori Suguru (Official)

中村憲剛がフロンターレの“バンディエラ”で、小林悠がフロンターレの“ヒーロー”ならば、
登里享平は、フロンターレの“ミスター”ではないだろうか。
ノボリが、“フロンターレらしさ”を象徴する選手たる所以とは──。

 2023年10月──。

 川崎フロンターレスカウトの向島建は、香川県の高松空港に降り立った。

 香川西高校(四国学院大学香川西高等学校)の大浦恭敬監督を訪ねるためだ。

「ノボリ、頑張ってますよ」

 そう伝えるのも、15年目になるんだと思うと感慨深いものがあった。

 ノボリをスカウトするため、ここ香川県に通い始め、それから毎年のように来ているから、もう何十回目になるだろうか。

 空港に降り立ち、小さく連なる山々が目に入ると、どこか懐かしさすら感じられるようになっていた。

スカウトと選手の出会い

 向島がノボリのプレーを初めてみたのは、2007年12月31日、第86回全国高校サッカー選手権大会1回戦のことだった。向島自身は静岡学園高校の出身だが、出身地は藤枝市だったため、等々力で開催する藤枝東高校の試合を観に行くことにした。

 目に入ったのは、対戦相手だった香川西高校の左サイドをドリブルで駆け上がる左利きの2年生だった。

 それが、ノボリだった。

 翌年3月には、沖縄高校招待サッカーに出向き、JFA選抜チームの一員だったノボリを「確かめに」行くことにした。

 大迫勇也にほとんどのJクラブスカウトの注目が集まるなか、向島は、ノボリに視線を注いでいた。会場だったグラウンドのピッチサイドすぐ脇に座り、ノボリのドリブルやクロスを間近で見ることができた。

「この選手は、いいな」と確信した向島は、さらにノボリのことを調べた。すると、香川西高校の大浦監督が、自分と同じ国士舘大学出身であることがわかった。また、向島の大学時代の同期で親友の北地一弘が香川県で高校サッカーの指導者(高松桜井高校)をしていた偶然も重なった。その彼から、ノボリの人間性についても「素晴らしい」と聞くことができた。

 それから、大浦監督にノボリに興味があることを伝えたが、唯一気になっていたのは、国士舘大学へ進学する可能性があるかどうかということだったというから、関係性を大事にする向島らしい。

「大浦監督は、大先輩ですから、もしそうなら横取りはできないと、まだ新米スカウトの自分は気にしていましたが、その方向はなさそうだとわかり、ノボリをスカウトする方向で動きました」


2022年6月、香川西高校の大浦監督が初めて麻生グラウンドに来た際にノボリと(撮影:向島スカウト)

 3年生になったノボリは2008年6月に初めてフロンターレの練習に参加することになった。練習参加を控えたある日、大浦監督が寮の見回りのため23時頃に部屋をのぞくと、ノボリが何かを読んでいた。

「何やってるんだ?」と声をかけると、「(フロンターレ選手の)名前、顔、出身校、家族構成ぐらい覚えていかないと」と言って父親に送ってもらったというホッチキスで留めたプロフィール資料を見ていた。

 初日に驚いた向島が「すごい指導をされていますね」と連絡をすると、「いやいや、あれはノボリが自分でやっていることなので」と大浦監督から言われたが、同じような会話は、それ以降、何度も繰り返された。3年生でキャプテンだったノボリは、1年生がやるような仕事も率先してやり、人望もあってマネージャーを買って出る3年生がいたり、みんなから慕われていたという。そういう人柄は、向島にもすぐ伝わった。

 練習参加最終日に向島からユニフォームをもらうと、ノボリは選手全員にお願いしてサインをもらった。その後、香川に帰るために向島が送っていくと、「クラスメイトにお土産買わなきゃ」と無邪気な笑顔で言っていたノボリの様子を今でも覚えている。

 7月には仮契約を結ぶため、福家三男強化本部長(当時)とともに向島は香川西高校を訪れていた。校長先生、大浦監督とともにご両親も出迎えてくれた。無事に契約が終わり、高松空港で、さぬきうどんを食べて、すっきりした気分で香川を後にした。

 あれから、15年──。

 変わらぬ景色で出迎えてくれた香川県で大浦監督とも会い、ノボリのことも思い出していた。

 大阪府出身のノボリは、選手権に憧れて、県外の帝京高校に進学する予定だったが、ふたりの兄が大学に通っていたこともあり、親に負担もかかるだろうと、所属していたクラブEXE'90FCの監督から紹介された縁で香川西高校の練習に参加することになり、そこで大浦監督と出会って進学することになった。

 1年生の時、プロ選手になりたいというノボリの夢を聞いて、フォワードやトップ下だったノボリを大浦監督が左サイドにコンバートした。「左のワイドかサイドバックなら1%は可能性がある」とノボリには伝えたが、左利きで、モノを書く時は右利きだったノボリが右視野であることから左サイドでプレーする時に武器になるというのが大浦監督の持論だった。「全部仕掛けろ」と言われて、ミスをしてもドリブルでチャレンジし続け、左サイドのアタッカーに成長した。

「大浦監督が一番武器になる左サイドにコンバートしてくれたからこそ、ノボリを見つけることができたと思います」(向島)

 こうして、ノボリとフロンターレの物語は、始まった。

ピックアッププレイヤー 2023-vol.13 / DF2 登里 享平選手 ピックアッププレイヤー 2023-vol.13 / DF2 登里 享平選手

“たっぴー”からノボリへ

 2009年に加入したノボリは、中村憲剛の引退後、安藤駿介とともに最古参の選手となった。15年目という在籍期間は、歴代所属選手のなかで、すでにワン・クラブ・マンだったケンゴの18年に次ぐものとなった。

 その前年に青山学院大学から加入した田坂祐介(現フロンターレスカウト)にとっては、初めてできた後輩のひとりであり、最初のキャンプでノボリがコーヒーの淹れ方を教わった先輩だ。ノボリのルーキー時代を知る田坂に聞いてみると、

「何色にも染まっていない純白な男の子って感じでしたよね」

 そう言って、懐かしそうに振り返ってくれた。

 2012年7月にボーフムに移籍した田坂は、2015年6月にフロンターレに復帰。2018年にフロンターレを退団後は、千葉が新天地となり、2020年限りで現役を引退した。そして2021年からはフロンターレに再び戻って、スカウトとしてセカンドキャリアを踏み出した。サポーター主催の送別会を2度経験し、引退後もフロンターレに戻ってきた田坂の経歴からも、愛された選手で、フロンターレを継承する功労者であると言えるだろう。

 その夜のことは、今でも覚えている人もいるだろう。

 2018年12月20日、とても寒い夜だった。

 田坂祐介の送別会にたくさんのファン・サポーターがフロンタウンさぎぬまに集まり、最後はひとりひとりと触れ合う時間をもち、長蛇の列ができていた。

 すでに1時間30分以上が過ぎた頃、その人は現れた。

「また、釣りにいきましょう」

 黒いキャップを被り、マフラーを巻いていたから、よく顔が見えなかった。しかも、コートの腹部辺りが不自然に思えるぐらい膨らんでいる。

 よく見ると、親知らずを抜いたばかりで半顔が腫れていたノボリで、お腹が膨らんで見えたのは、まだ小さかった長男・悠生くんをコートの中に抱いていたからだった。

 ノボリは「たっぴーへの愛です」としか言わなかったが、おそらく田坂の送別会に自分がいることがわかれば、周囲の人から「ノボリがいる!」と目立ってしまうとも考えたのだろう。最後尾の方に並んで約2時間無言を貫き、サプライズを決行した。

「最初は、誰だろう?って、めっちゃビックリしました。顔もすごい腫れていたので(笑)。突っ込ませる要素を持ってくるのがノボリらしいですけどね。やっぱり、酸いも甘いも一緒に経験して、長い時間を一緒に過ごした後輩で、釣り部も一緒だったし、自分がフロンターレを離れることもあって、いろんなことが頭に過りました。でも、ここで泣いちゃダメだなって思ったから、耐えました」(田坂)

 田坂は、うれしかった一方で、ノボリの“後輩としての気持ち”に共感する部分もあったという。

「僕は、フロンターレに入って長い時間を宏樹さん、ケンゴさんと一緒に過ごしてきました。でも、宏樹さんが引退する時に、ドイツにいて、お世話になった人の引退セレモニーに立ち会えなかったことが悲しかった。だから、自分にそうしてくれたノボリの気持ちもわかったから、ありがたいなと思いました」

 2018年、フロンターレはJ1リーグで2連覇をし、ノボリは思い出になるような例年とは一味違った選手旅行を旅行会社とも打ち合わせながら計画した。みんなでUSJに行き、有馬温泉に一泊することになった。

 田坂は、その夜、苦楽を共にしてきたチームメイトに自分の想いを伝えたという。

「ノボリは、当時は完璧なスタメンではなかったし、もやもやしている気持ちがあるのは知っていたけど、フロンターレといういい環境のなかで、まだまだ成長できるし、限界を決めずにやれよ、っていう話はしたと思う。それに、ノボリは自分のことを犠牲にしてチームのためにっていう気持ちが他の選手よりも強いタイプで、それで損をしている部分もあったはずだし、もっと自分本位にやっていいと思ったから、スタンスとかマインドを変えていくことも、ここから先、ノボリがもう一皮むけるために大事だろうって俺はずっと思っていました。その後、実際に、ポジションを獲って、ベストイレブンにまでなったり、代表にも入るんじゃないかって期待されるような選手になった。いろんなことが重なって、自分を変化させていい時期を迎えたんじゃないかなと思います。でも、ノボリ自身が自分なりに改善したり、もっとやんなきゃって思ったことが一番大きかったと思います」

 2018年から2019年にかけて、ノボリは自分を変えようとしていた。

“欲”と行動変容

 2017年に初優勝をし、それから2連覇を達成し、全員の悲願が叶ってノボリももちろんうれしかった。

 だが、選手個人としての自分は、どうなのだろうか? ノボリは、その頃、葛藤し、自問自答を繰り返していた。

「自分は選手として何か残せているのかという葛藤は常にあって、このままでいいのかという想いが、だんだん強くなっていました。2017年は勝っている時にクローザーとして試合を締めて、それが成功して自信にもなりました。でも、サブもまだ多くて怪我人が出たら試合に出て、戻ってきたら、サブに戻るという感じでした」

 2018年は、リーグ戦で25試合に出場して、15試合にスタメン出場した。

「自分の役回りをこのまましていればいいのかなと思いつつ、それに甘えて逃げているんじゃないかって思いがありました。個人としての達成感というか、何かを成し遂げたという感覚までいかへん。成功した喜びがわからなかった」

 後がないと自分を追い込んで迎えた2019年は、リーグ戦で27試合に出場し、24試合でスタメンとして出場した。左右サイドバック、左サイドハーフをこなし、ルヴァンカップ決勝では、120分ピッチに立ち、ノボリにとっては初めて優勝の瞬間をピッチで迎えることができた。だが、それでもなお自分の“欲”に正直に向き合うようになっていたから、自分自身に物足りなさも残った。

「スタートから出ていた試合が多かったので、ほんまに言い訳ができないと思っていましたけど、2019年は3連覇を目指すなかで、リーグ戦で優勝ができなかった。結局、自分の欲を出してやってきたけど、優勝させる力が自分に足りていなかったという責任を感じました」

チャンスを見極め、変化を恐れないこと

 当たり前のことだが、約30人が所属するクラブのなかで、スタメンで出られるのは11人しかいない。そこを掴むために日々のトレーニングでパフォーマンスを発揮し、チャンスを掴んだ際には、そのプレーが次の試合への切符になる。ノボリは、そういう「チャンス」に対して学生時代から敏感に感じるものがあったという。

「チームの中での立ち位置や自分の現状はわかるし、出た試合で期待に応え続けないといけない。スタメンのチャンスを掴んだ時には、同じポジションの選手以上の評価をもらわないと結局は続けて出られへんわけで、チャンスを掴めるかどうかは自分次第。“ここ”という見極めは昔から常に考えていました」

 左サイドバックの不動のレギュラーだった車屋紳太郎との競争は、緊張感を伴うものだっただろうし、結果的にノボリが左サイドバックとして定着し、後にセンターバックを志願した車屋もまた、チームのなかで自分を変化させて欠かせない存在として在り続けている。ふたりともに自分自身と向き合い、変化させて、なおかつチームに貢献してきた証でもあるだろう。

 アタッカー時代のノボリも知り、サイドバックとして精進していく様を見てきた田坂はノボリの変化について、こんな風に言っていた。

「若い頃は、縦に入ってクロスを上げるとか自分が得意な形にハマったら止められないというタイプでした。ドイツから帰ってきたら、風間さんが監督になり、サッカーをまた別の角度から捉えるようになって、ポジションを移したことも影響して、プレーの幅が広がったと思いました」

 サイドバックとして自身のプレーを確立していったノボリについては、こんな風に感じていた。

「サッカーIQが確実に上がったなと思いましたし、自分だけじゃなくて、味方のこと、味方といってもそれが2、3人じゃなくて、11人全体のことが見られるようになったうえで、あそこのポジションにいるんだなと思います。フロンターレがタイトルを獲り続けている状況で、パフォーマンスを落としたらポジションが奪われる可能性もある緊張感のなかで、ずっと立ち続けているということは、フィジカル的な能力だけじゃなくて、頭のなかが整理されていないとなかなかできないと思うので、そこがやっぱりノボリはすごいなと思います」

オリジナルなサイドバック像

 新型コロナウイルスが突然に猛威を振るった2020年は、フロンターレサッカーの転換期にもなった。

 4-3-3にシステム変更し、左サイドバックのレギュラーとしてノボリはピッチに立っていた。新しいシステムを試行錯誤しながら作りあげていく過程で、選手間のコミュニケーションは必須で、その意味でもノボリの存在は際立っていた。声援が制限されたピッチでコーチングの声も話題になった。

 また、この年から交代枠が5人に増えたことで、戦い方にも大きな変化をもたらしたと言える。フロンターレにおいても、鬼木監督が増えた交代枠を当初から積極的に使っていたこともあり、とくに前線の選手交代は必然的に増えることになった。そこで、変化に柔軟に対応できるノボリの強みが際立った。

 自分なりのサイドバック像を進化させてきたノボリは、それ以前のシーズンでも例えば左ワイドでプレーする長谷川竜也や齋藤学、阿部浩之らとプレーする際に、彼らの長所や考え方を考慮して、人を活かしながら自分も生きることができるようになってきていた。

 さらに、交代に対応しながら、左サイドから全体を見渡して、チームの目となり、ポジショニング、視線、フリーランニング、様々な技術を使って、味方も敵も動かしながら、最適解を自ら作り出していくことに面白さを感じ、ノボリならではのサイドバック像を築いていった。中村憲剛や家長昭博、大島僚太や阿部浩之らチームメイトからの意見も取り入れて、時には他の選手へのアドバイスにも耳を澄ませて“自分事”として聴くことで、疑似体験すらも自分のものに吸収していった。

 気づけば、あらゆる予測や分析ができるようになっていた。

「自分が見ていて、このタイミングでボールが来るなとか、面白いようにボールが入って、チームとしても熟成されていくのを感じていました。自分がいまここでボールを動かしているから、じゃあ次はここかなとか、相手をある程度見ながらプレーができていて、サッカーって難しいけど、おもしろいなって感じていました」

 日常や性格がプレーに出る、という部分においても、ノボリは自分の特徴をプレーに活かしてきた。いろんなことに気づく性格から、あらゆる最新情報をインプットできるため、その分、チームとしての選択肢も増えただろう。それは、ピッチにいても、ベンチにいても、ピッチ外でも存分に発揮されてきた。

 2020年は、三笘薫の登場により、その圧倒的スピードによるドリブル突破やJ1新人タイ記録となる13ゴール、12アシストという結果が話題になったが、左サイドのノボリの演出によるコンビネーションが支えていた部分も大きかっただろう。

「ほんまに相手を攻略する感じで面白かったし、カオルがドリブルに至るまでの役回りを自分で考えてプレーすることが楽しかった」

 だから、三笘がチームを離れ海外に渡った時、「また、一緒にプレーしましょうね」と言ってくれた言葉は、その後のノボリの未来へのモチベーションになった。

「今でもあいつがおる感覚でプレーしようとする自分がいるんです。2029年末に等々力が専用スタジアムになった時に、もしもカオルとまた一緒にプレーできたらっていうのは自分の夢。あいつが海外に行ってどんどん活躍するから、それがいつのことになるかわからなくなっているところもありますけど(笑)」

 目標やモチベーションは、ノボリが大事にしている“欲”や“刺激”や、それを上回るだけの“楽しさ”を支える要素になっているのだろう。真剣な表情に変わって、こう言っていたのが印象的だった。

「だから、一緒にできるように、それまで自分の感覚とか体とか、磨き続けて、保っていなければいけないんです」

12年目のベストイレブン

 充実した2020年も終わりを迎えようとしていた。

 ところが、12月19日に行われたJ1リーグ最終節、柏レイソル戦の終了間際のプレーで、ノボリは、左肩を負傷してしまう。

 日立台のスタジアムから病院に向かうため、ドクターの車に乗って出発を待っていた間、ノボリは電話をかけた。

「もしもし?」と電話に出た聞きなれたその声を聞いたら、怪我の報告をする前に泣いてしまった。それぐらいに引退までの間、一緒に練習して、一緒に元日にピッチに立って優勝したかった。

 2021年元日の天皇杯決勝、三笘のゴールが決まるとノボリはスタンドから片手でガッツポーズを作り、試合後は、ピッチに下りてこの日が現役最後となった中村憲剛と選手やスタッフが記念写真を撮れるように仕切っていた。

 自分も思い出に2ショット写真を撮ってもらったが、新国立競技場のロッカールームに戻り、選手それぞれがケンゴと抱き合って労うなか、終わりが来てしまうのが寂しくて、なかなか「お疲れさまでした」の声がかけられなかった。

 中村憲剛に憧れ、サッカーの先生として、たくさんのことを教わってきたノボリにとって、この年にベストイレブン初受賞という恩返しができたことは選手として最大の喜びだっただろう。

「ほんまにうれしかったです。優勝はチームみんなで獲ったものでそれはうれしいけど、選手個人としてピックアップされてということはなかったので、シーズン通しての評価というのは自分のなかですごく意味がありました」

 小林悠は、「弟のような存在のノボリがベストイレブンに選ばれたことは、自分のことのようにうれしかった」と喜んだ。

 田坂は、「有言実行でしたね」と言って、こう労った。

「優しさにもいろいろあるけど、ノボリは人を蹴落としてでも上にいきたいと思うタイプじゃない。そういう性格はプロ向きじゃないかもしれないけど、やっぱり内に秘めたものがすごく大きくて強いし、クラブへの想いも強いですからね。そういう選手が報われてほしかったし、凄かったと思います」

 ノボリ本人にとっては、左のアタッカーからサイドバックへの変更というあらゆる“変化”を自分自身が起こしてきたなかで歩んできた道のりだったから、「スカウトしてくれた建さんは、今の自分にビックリしているんじゃないか」という気持ちがあったという。

 だが、向島は驚きという感覚は持っていなかった。

「もちろんノボリは左で突破することが得意だったから、左の前で活躍するだろうとは思っていました。ただ、左の後ろから上がっていくことも想像できましたし、前のポジションは競争が激しいので、変化させていくことも想定していました。でも、ノボリの場合、一番は人としての取り組む姿勢や人間性の部分ですよね。周りをよく見ている性格だったから、サイドバックもできたんでしょう。技術や能力だけでは、サッカーはできないし、主力として一流にはなれない。そういう人間性は、プレーに影響しますからね。とにかく10年以上かけて、ベストイレブンまで自分の力を高めていったことも素晴らしいことだし、私もうれしかったですよね」(向島)

 高卒からプロ入りし、ワン・クラブ・マンとして12年目でベストイレブン初受賞というのは、かなり稀有な例だろう。そうノボリに伝えると、ニヤリとして「32歳で日本代表初選出という寺田周平さんの方がすごいですけどね」と、こちらの想像の上をいくノボリらしいフロンターレ愛のある答えが返ってきた。

 ただ、惜しまれるのは、コロナ禍の2020年は、通常のJリーグアウォーズが行われなかったことだ。

 この年、フロンターレからはノボリに加えてジェジエウ、山根視来、守田英正、田中碧、三笘薫が初受賞、チョン ソンリョン、谷口彰悟、家長昭博が2回目となるベストイレブンを受賞していた。鬼木監督、谷口キャプテン、三笘の3名がJFAハウスに行き、2名以外のベストイレブン受賞者はクラブハウスからオンラインでインタビューという形式だったが、ノボリは、怪我のために欠席だった。

 これまで、チームメイトをたくさん祝福したり、チームを盛り上げてきただけに、次の機会には、盛大に祝ってもらい、セルフプロデュースもしつつ、スポットライトを存分に浴びてほしい。

ノボリにとっての継承

 2009年にフロンターレに加入し15年目を迎えたノボリは、これまでたくさんの選手、スタッフと一緒になってフロンターレを盛り上げてきた。その分、フロンターレでの出会いと別れも繰り返してきた。

「ほんまにこの季節は、いやな時期でもあります。残ってほしいなとか移籍するのかなと思ったり、やっぱりしんどいですよね。いろんな選手を見てきたなかで、毎年シーズンが終わると、その選手が残してくれたものやふるまいを考えます。それぞれの良さがあって、こういうことはすごく助かったなとか、これはすごくいいプレーだったなとか、あの人の良さはこういうところやったなとか考えるんです」

 そうして1年が終わり、また新しいシーズンに向かい、新たなチーム編成で戦いに挑む。毎年、そう繰り返してきた。

「サッカー界ではみんなとつながっているし、別の場所でも活躍している姿を見たり、関係性は続いていくので。それに新しいシーズンが始まったら、切り替えて新しいチームでやっていくことが大事やし、結局はそういう(勝負の)世界やから」

 ノボリの背番号「2」は、ミスターフロンターレと言われた伊藤宏樹が長年つけていた番号で、それを受け継いだ實藤友紀(現 横浜F・マリノス)がクラブを退団する時に、「宏樹さんに申し訳ない。ほんまに悔しい。できればふたりを知る生え抜きのノボリにつけてほしい」と言われた。その熱い想いに触れ、大事にしてきた23番から2016年に背番号を変更した。当時ノボリは、「歴史ある背番号『2』をチームとして大事にしていくべきだし、それまでつけていた人たちの思いも背負い、フロンターレを象徴するような選手に成長していきたい」と決意した。気づけば7年間つけていた23番より、2番をつけている時間の方が長くなった。

 中村憲剛が長年やっていた試合速報のX(旧Twitter)更新もノボリが受け継ぎ、デジっちでの目玉企画であるゴールパフォーマンスは、14番を継いだ脇坂泰斗と続けることにした。

「若い頃はプロデュースするようなキャラだとは思ってなかったけど、いつの間にか、サッカーだけではなく、みんなの特徴を理解して、映像に仕上げるようになった」(田坂) デジっちは、森谷賢太郎(現 サガン鳥栖)とペアで担当した後、森谷の移籍後は谷口を相棒に、2022年には小林、2023年は安藤をパートナーに、そうして毎年、降りてきたネタをスマホのメモ帳に残しながら情報をアップデートし、チーム全員出演を掲げ、続けることで、それが“フロンターレらしさ”となって定着した。

 2022年のシーズンオフには、コロナ禍で数年行けていなかった陸前高田へサプライズ訪問するため、安藤、小林、大島ら在籍年数が長い選手たちと計画を立てていたが、様々な事情が重なり、ひとりで行くことも考えていたところ、アカデミー出身のルーキー早坂勇希に声をかけて、ふたりで訪問した。「ノボリさんの計画とかみんなを笑顔にする姿を見て、本当にすごいと思った」と早坂は感激していた。

 伊藤宏樹以降、井川祐輔、横山知伸、田坂祐介、杉山力裕と主に生え抜き選手が担って継承してきた選手会長を杉山力裕が移籍する際に託されて、2012年にノボリがやるようになった。その後、ノボリが日本プロサッカー選手会の理事(2016年から監事、2020年から副会長として6年間任期を務めた)になったタイミングで、安藤を指名。「クラブカラーを知っている選手がやるのがいいのではないか」という伝統的な流れは今なおノボリから安藤駿介が受け継いだことによってつながっている。

ワールドカップとショウゴとミキ

 2021年は、副キャプテンに就任し、2度目となるJ1リーグ2連覇という結果は得られたが、目指していたACL、ルヴァンカップ、天皇杯は落とし、悔しさも味わった。長い隔離生活も経験し、「あの経験をしたらタフになる」という厳しさを、チームメイトとコミュニケーションを取りながら、崩れず、乗り越えた1年だったと言えるだろう。

 迎えた2022年。副キャプテンとして変わらずチームを支えながら、選手としてはキャプテンマークを巻いて国立でパリSGと戦った機会もまた、「刺激が強くて、幸せな時間」になった。

 そして、最終節となったFC東京戦──。

 前半途中にGKチョン ソンリョンが退場となり、ノボリと交代する形で丹野研太がピッチに入る時、緊張する丹野をリラックスさせようと笑顔で声がけしたノボリに気づいた人も多かっただろう。ベンチに退いてからも声がけし、水を渡したり、自分がチームのためにできることをやっていた。

 終了後、悔しさから涙を流していた選手たちが多かったなかで、自分自身の悔しさは心にしまって、ソンリョンや、最終節に帯同していたチームメイト全員でサポーターに挨拶ができるよう行動していた姿が印象に残っている。

「僕も泣きたい気分でしたけど、ひとり少なくても勝ちにもっていった姿を見ていたので…。結局、結果がすべてだし、負けてる時代も過ごしてきたなかで、初優勝から優勝を積み重ねてきて、負けて得るものより勝って得るもののほうがはるかに大きいと思うし、そういう世界やから、結果が本当に大事だと思います。それでも、ああいう死力を尽くした姿を見ていたら、この先は大丈夫やなっていう思いもあって。優勝できなかったことは、結果論ですけど、もったいない試合も確かにあった。それでも最後、ああいう勝ち方をして感じるものもあったし、悔しさはこれから先のフロンターレに絶対つながると思いました」

 最終節が終わって、いつものように試合後、数人で行った食事の場で谷口から退団と移籍の話を正式に聞いたノボリは、自宅に帰った後もポッカリと心に穴が空いたような心境だったという。

 2014年にフロンターレに加入した谷口は、ノボリにとっては、仲のよい後輩であり、信頼しているチームメイトだった。2020年に小林から引き継いでキャプテンになった谷口を2021年からは副キャプテンとして支える関係でもあった。ピッチでも連携しながらチーム全体を見渡す役割を互いに担っていたし、ピッチ外でも、ノボリのボケを拾うのは谷口の“役割”で、自分の話を聞いてくれる谷口の存在は、ノボリにとって大きかった。

 そういう近い関係だったからこそ、谷口があまり人には見せないサッカー選手としての“野心”についてもノボリは気づいていたし、心の準備はしてきたつもりだった。

「覚悟とか絶対的な自信もわかっていたし、やりたいことがあんねやろうなっていうのは感じていました。あいつも責任感が強いから、これからもフロンターレでという思いもあった。あいつのおかげで上向きになったところもあるし、だからこそ、自分のやりたいようにというか、ワールドカップに行って、野望もあるやろうしなって思って…。だけど、あいつが出ていくってことを考えたら、家に帰って相当落ち込みました」

 谷口がチームを離れる際に、「ユニフォーム、くれや」とサインを入れてもらったノボリがクラブハウスから帰ろうとすると、「『いや、俺もくださいよ』って。俺のいる?って思ったけど(笑)、ユニフォーム交換をしました。いまだにテレビ電話で話をして、俺が話すのを一通り聞いて、ちょっとショウゴが話して、頑張らなあかんなって思いにさせてくれるし、いまも代表に選ばれて、野望をもちながらやってるし、それは自分にも刺激になる。まぁ、あいつは俺の扱い方を一番わかってるし、信頼しているんです」

 その谷口とともに2022年、カタールワールドカップに臨む日本代表選手に選出されたのは、ノボリと逆サイドの右サイドバックとして切磋琢磨してきた山根視来だった。カタールワールドカップについての話を聞くと、返ってきたのは山根に対する想いだった。

「ミキが選ばれた時は、泣けるほどうれしかったです。ミキは、いろんな葛藤があるのも見てきたし、長い期間ずっとプレッシャーと戦っていたので。海外の選手とやるのに、これじゃダメだ。このプレーじゃ足りないって、試合の後にも『これでいいのかなって思ったりするんですよね』って言っているのも聞いてきたので。だからあいつの1年は、すごい長く感じたんじゃないかと思います」

 2020年に湘南ベルマーレからフロンターレに移籍加入した山根は、キャンプからノボリと同部屋だったことをキッカケに、すぐに打ち解け、その年から4-3-3にシステム変更した両サイドバックとしてお互いに刺激し合ってきた。

「いろいろ話しながらやってきましたけど、あいつの成長スピードは半端なかったし、3年連続ベストイレブンにも選ばれてすごいじゃないですか。ずっと休まず毎試合アピールして、とくに2022年は、ワールドカップが絶対頭にあったと思うし、逆算してプレーしていたんやろうなってすごい感じる部分がありました」

 そう真剣な表情で一気に話してから、「まぁ、あいつは“欲まみれ”なんで」とニヤッと笑って付け加えた。

 ノボリは、“向上心”とか“うまくなりたい”とか“成長したい”とか“こうなりたい”という心の中から湧き上がってくるものや欲求に近い、選手として成し遂げたい目標を“欲”と呼ぶ。だから、それもまた山根に対する最大級の褒め言葉なんだなと感じた。

タイトルの価値

 ここ数年で、核となる選手やスペシャリストの引退や移籍も確かにあったなかで、2023年は、ここまで厳しい戦いを強いられた面もあった。彼らの存在の大きさがわかるからこそ、それを想定しながら、練習の雰囲気や質も大事にし、崩れないことを意識してきた。また、新加入選手や若手に対しては、少しでも早くお互いを理解し、プレッシャーを背負いすぎないように心配りをするなど、ベテランとしてチームを支えていく役割も担ってやってきた。

「ヤストやケント、タツキとか、他の選手ももちろんやけど、いろんな選手が試合に出ることの積み重ねで逞しくなり、喜怒哀楽も経験するなかで、自覚とかも磨かれていって、ひとりひとり意識が高まり自立してきた部分があると思います。若手は、たとえ空回りしたりミスがあったとしても、それもまた経験やし、気づきや成長につながる。勢いよく100%でプレーしてくれたら、それだけでチームの力になるから背負わずやってほしいし、そこは、経験あるベテランがおるから、自分も含めてカバーしてこそベテランの力だと思います。それに、ほんまにソンリョンやアキくんは、負けず嫌いだし、だからこそあの年齢でもトップでバリバリ活躍しているんやと思う。コバくん(小林)は、いつでも、どんな時もしっかりチャンスを生かしてプレーをしていて、そういう姿を近くで見ていると、あの人は、ずっと変わらず“フロンターレのエース”なんやなって思います」

 今、ACLでのチャンスと天皇杯決勝が目の前にある。

 2017年のJ1リーグ初優勝から6つのタイトルを獲得したフロンターレ。経験するまで分からなかった優勝を自分たちで体感したことで、いろんなことを得ることができた。

 変化も受け入れながら、進化をあきらめず、成長をしていきたい。

 そのために天皇杯決勝に懸ける思いは、ノボリ自身も強い。

「リーグ戦は、ほんまに情けない。だからやっぱり、天皇杯の決勝は、勝ちたいんです。今のチームはタイトルを経験していない選手たちもいるから、勝って、優勝して、タイトルの味を知ってほしい。ほんまに優勝することで自分の世界観や考え方とか意識が変わるし、成長曲線もぐんと上がって、人としても選手としても優勝をすることで成長できるし、優勝以上の価値があるものだと思う。それに、ここで優勝することでフロンターレというクラブがもっと伸びていくと思うし、クラブとしてもここをキッカケにしなきゃいけないと思っています。僕自身も昨年獲れなくて悔しい思いをした分、絶対に獲りたいし、優勝経験がない選手には、ほんまに優勝を経験させてあげたいし、味わってほしい。絶対、変わるので」

 それがいま、ノボリの一番の望みであり、みんなの願いでもある。

“フロンターレらしさ”の象徴

 今回、ノボリとの思い出を振り返ってくれた田坂が、インタビューの最後の方には、スカウト目線からノボリについて語っていたのが心に残った。

「ノボリも悠もそうですけど、だいぶ気持ちがこもっているエモーショナルな選手じゃないですか」

 “だいぶ”というところを強調して言った。

 それを聞いて、あるシーンが思い出された。

 田坂は、千葉に移籍した2019年4月に右膝前十字靭帯損傷、右膝内側側副靭帯損傷、右膝内側半月板損傷という全治7ヵ月の重傷を負った。当時、奈良竜樹も左膝内側側副靭帯損傷、内側半月板損傷で全治4ヵ月の怪我をし、ふたりは川崎市内で同じ日に手術をしていた。

 フロンターレイレブンは、その翌日となる5月3日のベガルタ仙台戦で、奈良の「3」のユニフォームを着ていた。小林悠の2ゴールと長谷川竜也のゴールで3対1で勝利すると、試合後、Gゾーン前に並んだ選手たちのなかで、ノボリは釣り部のキャップを被り、田坂が着ていた2018シーズンの「6」番のユニフォームを手に持っていた。そのユニフォームをお立ち台に立つ小林悠に手渡すと、「たっぴーも怪我をしたので、応援しましょう」と田坂の応援歌をみんなで歌った。

「外に出てフロンターレの温かさを改めて感じた出来事だったし、スタッフから動画が送られてきて、本当に感動しました」(田坂)

 2020年の田坂の引退セレモニーでは、小林悠、ノボリ、家長昭博、中村憲剛の4人がフロンターレからサプライズメッセージを送った。

 その動画のなかで、ノボリは、最初のキャンプで同部屋だった田坂からコーヒーの淹れ方を教わり、釣り部では釣りの仕方を教わったこと。そういう柔らかいエピソードを入れつつ、2018年に田坂が退団するときに自分にくれた熱いメッセージのおかげで、自分はたっぴーの分も頑張ろうとフロンターレで精進しています、と感謝した。そして、最後には、「また、釣りに行きましょう」と2年前と同じセリフでノボリらしく締めくくった。

 そういう経験をしてきたスカウトの田坂が思う“エモーショナル”な選手についての続きは、こんな話だった。

「サッカーがうまい選手、能力がある選手はいるけど、パーソナリティーで魅せられる選手はそんなに多くいないだろうし、応援したくなるような選手とか、今スカウトの立場になり、やっぱりそういう選手にクラブを背負っていってほしいし、長く活躍してほしいって思うんです。ノボリとか悠とかは、そういう見本ですよね。フロンターレってどういう選手がいるんだろうってなったら、みんなが重ねる、そういうクラブを象徴する選手になってくれていると思います」

 向島は、「ノボリみたいな選手は、もうなかなか出てこないと思います。彼は、特別ですね」としみじみと実感を込めた。

 香川西の試合を観に行くと、 5厘刈りにしたノボリが駆け寄ってきて、ピシッと「気をつけ」の姿勢で向島の眼前に立ち、毎回こう聞いてきたという。

「今日の僕のプレーは、どうでしたか?」

 自分はプロになりたいんだ、と伝わってくる、ひたむきな姿勢や真っすぐな目をしたノボリの姿は、今でも脳裏に焼き付いている。

「目が違ったし、毎回会う度に、この子はすごいなと思っていました。スカウトを始めてまだ数年でしたけど、『こういう子がいるんだ。この子は絶対伸びるだろうな』と思いました。才能があっても、性格が頑固すぎたり人間性の部分が成長を邪魔してしまうこともあるなかで、ノボリは才能もあって、謙虚さもあったので、絶対彼はチームの力になってくれるだろうと思っていました」

 向島は、加入の際に自分が関わり、その後、移籍することになったり、カテゴリーが変わっても頑張っている選手たちのことは、今も頭にあり気にかけている。

 そのなかで、気づけば、向島がスカウトした選手のなかで、フロンターレワンクラブでは15年目を数えるノボリは最長になった。

 ある時、何気ない会話をしていたなかで、ノボリが「建さんも自分がこんなに長くやって、驚いていますよね?」と口にしたら、「いや、そうなると思っていたよ」と向島がキッパリ即答してくれ、ノボリはうれしかったという。

「建さんは、人間性とかを見て決めているから、驚きはないって言ってくれて。改めて、そんな風に思って選手を獲得してくれて、入ってきただけじゃなく、ずっと見てくれてるんだなって思ったら、自分を獲るって決断してくれた人の想いとかも、もっと汲み取ってプレーしないといけない」と感謝した。

 それは、向島にとっても、スカウト冥利に尽きるだろう。

「ノボリは、チームのために行動ができる自分が理想とする最高の選手ですよね。スカウトをするなかで思うことは、とくに高校生は、まだ10代なので、その子の人生を変えてしまう重い責任があり、そういう自覚がないとスカウトの仕事はやってはいけないと思っています。お金の面や環境が急に変わるなかで、自分をコントロールできることが必要で、ノボリは、そういう面でもしっかりしていました」

 最近は、海外志向の選手も増え、海外移籍も増えてきた。

「選手は個人の目標もあるだろうし、海外に行くことは仕方ない面もあるかもしれません。でも、私自身はフロンターレのスカウトなので、フロンターレで長く活躍し、チームのために貢献してくれる選手を獲得しようと思って活動しています。ノボリや悠、リョウタもそうですけど、自分の思いをちゃんと表現してくれて、感謝しています。練習参加する学生に声をかけてくれたり、寮生もそうですけど、食事に連れていってくれたり、こちらが何も言わなくても本当にクラブのことを理解して行動してくれて助かっています」

 そして、最後にこんな言葉で締めくくってくれた。

「なかなかノボリのような選手とは出会えないと思いますけど、これからもスカウトとしてノボリみたいな“フロンターレらしい”選手を獲りたいですね」

未来へ

 11月13日、ノボリは33歳の誕生日を迎えた。

 中学時代の同級生で、成人式での再会をキッカケに2015年10月25日に結婚した奥様との間に、今夏には、待望の第三子となる長女が生まれて、登里家は5人家族になった。

 試合から帰ると、いつも笑顔で「一番良かったで」と出迎えてくれる奥様には、ずっと支えてもらってきたし、今年は、リーグ戦では2017年以来、子どもが生まれてからは初めてとなるゴールが決まると、フロンターレが大好きな息子たちが喜んで、家でそのシーンを何度もリピートしている姿を見た。

「家族の存在は励みだし、まだまだカッコいい姿を見せて活躍したい」という気持ちは、ノボリにとってさらに頑張ろうというモチベーションになっている。

「未来は何があるか分からないですけど、15年目を迎えて、ここまで来たらできるだけフロンターレで頑張りたい、という想いもあるし、自分もフロンターレもいろいろな波があり、いろんな経験をしてきたなかで、これからもいいことも、良くないこともあると思いますが、いいことを大事にして、ピッチ内でもピッチ外でも、継続していくことが大切だと思っています」

 

 みんなの笑顔のため、チームのため、勝つため、いろんなことに気づきながらノボリは行動してきた。

 だからこそ、ここから先も、ノボリ自身の“欲”に向き合い、それを上回る“楽しさ”を感じながら、チームメイトや周りの人たちと、いろんな経験や気持ちを共有し、乗り越えながら、実り多い日がこれからもずっと続いていきますように──。

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[のぼりざと・きょうへい]

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タイミングのいい攻め上がりや対人戦の粘り強さに加え、周りの選手を動かしながらゲームメイクにも加わるクレバーなプレースタイルが持ち味のレフティー。フロンターレ在籍15年目。副キャプテンとして持ち前のキャラクターで日々のトレーニングからチームを盛り上げる。

1990年11月13日、大阪府東大阪市生まれニックネーム:ノボリ

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